● 参入障壁を下げることで電子書籍市場を拡大できる
4月22日、シャープ株式会社は新しい電子書籍フォーマット、XMDF3.0用の制作ツールを7月から無償で提供すると発表した[*1]。また同社はこのXMDF3.0の仕様書を7月以降に公開することも合わせて発表した[*2]。この思い切った手を打ってきたシャープの意図はどこにあるのか、詳しく考えてみたいと思う。XMDF(ever-eXtending Mobile Document Format)は、同社が2001年に「ザウルス文庫」用のフォーマットとして開発した長い歴史を持つ[*3]。当初から縦書きやルビ、図版の挿入など紙の本を意識した機能を実現させている。現在、携帯電話を中心に広く普及しているXMDF2.0は、ボイジャー社のドットブックとともに、日本の電子書籍市場を二分する大きなシェアを持つ。
このXMDF2.0は、2009年に国際規格IEC 62448(第2版)附属書Bとして収録されている[*4]。したがって規格票を買えば、ひとまず誰でもXMDF2.0のデータを作成することが可能だ。ただし、それはあくまで仕様が公開されているというだけであり、現実にコンテンツ業者がXMDF2.0でデータを作ろうとすれば、シャープによる制作ツールを購入するか、専門業者にデータ制作を依頼しなければならなかった。一説によれば、その料金は出版社で8万円、編集会社では30万円にもなるという[*5]。
つまり、今までXMDFを利用するには高額な料金が必要であり、これが電子書籍市場への参入障壁となっていた。今回のシャープの発表は、こうした同社の閉鎖的な戦略を180度転回するものだ。なぜ彼等はそのような大胆な変更を決意したのか? 同社が今回の発表に当たって公表した資料では、以下のように説明されている(図1)。
図1 シャープが公表した、今回の発表の背景 |
● 無償提供される3つの制作ツール
シャープの「本気度」を探るために、もう少し詳しく今回の発表を見てみよう。まず、今回提供されるツールで制作できるという「XMDF3.0」とは何か? これは従来からあるXMDF2.0の後継となる電子書籍フォーマット。同社が去年12月にカルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社と合弁で開設した電子書店、『TSUTAYA GALAPAGOS』(ツタヤ ガラパゴス)[*6]のために開発されたものだ。2.0までの日本語組版機能に加え、見出しや図版の位置を固定したまま文字の大きさだけを変更できる機能や、画面サイズの変化に追従して自動的にレイアウトを変更して表示するリフロー機能などが特徴とされる[*7]。このXMDF3.0のデータは3種類の形態がある(図2)。1つめはリフロー機能が実現されている「マルチレイアウト型」。2つめがページごと画像にした「イメージ型」。これは作成が容易で表示にリソースを必要としない反面、単なる画像だから文字の検索ができない欠点を持つ。3つめが前二者を折衷した「ハイブリット型」で、画像とテキストの両方を使うことでマルチレイアウト型のような柔軟な表示と、イメージ型の簡便さを両立させようとしたタイプだ。
図2 XMDF3.0における3種類のデータ形式 |
図3 提供される3つのソフトウェア |
図4 制作ツールの動作環境と主な機能 |
- IDML形式(Adobe InDesign CS4/CS5)
- TTX形式(ドットブック形式)
- XMDF記述フォーマット(XMDF2.0)
- プレーンテキスト
- HTML形式
● IDML形式読み込みでメリットを受けるのは
このうち目を引くのが、IDML(InDesign Markup Language)形式のサポートだ。これはアドビシステムズのレイアウトソフト、InDesignのコンテンツをXMLで記述するものだ[*8]。同ソフトは出版業界で高いシェアを持っている。つまり、現在目にする書籍や雑誌の多くを制作しているのは同ソフトだ。そのInDesignのファイルフォーマットをサポートしたことにより、紙の本のデータからそのまま電子書籍のデータができる“ワンソース・マルチユース”が可能になる。このIDMLの読み込みが本当に機能するなら、不況にあえぐ出版社にとっては夢の広がる話だ。ぜひ現物でテストしたいと考えている。このIDML形式のサポートを喜ぶのはどんな人々なのか、もう少し考えてみよう。既に電子出版を開始し、XMDFによる制作体制を確立しているような出版社にとっては「今さら」という話であり、じつのところメリット少ない。むしろ、InDesignを使っていながら、まだ電子出版に手を出していないような出版社こそが喜ぶのではないか。
出版社だけではない。一口に出版業と言っても裾野は広い。この業界はさまざまな業種が支え合う水平分業で成り立っている。出版社が自分でデータを制作することはあまりなく、印刷業者や独立したDTP業者がそれを引き受けてきた。しかし、こうした業者は比較的小資本のところが多く、いくら世の中で「電子書籍元年」などと騒がれても、簡単に新規投資を決められる会社ばかりではない。
しかし、IDML形式をサポートしたXMDFビルダーが無償公開されれば、こうした業者も簡単に電子書籍の制作に手を広げることが可能になる。つまりInDesignに習熟さえしていれば、XMDFのデータ制作を始めることができるという状況がおとずれる。
● 事前説明会での一問一答
ところで今回の発表に先だち、シャープは報道各社に事前説明会を開催している。その席で興味深いやり取りがあった。それを紹介する前に、同社から示された制作ツールの提供方法等の資料を示しておく。質疑応答はこの資料を見た上で行われた(図5)。図5 制作ツールの提供方法等 |
中村宏之[*9]:一応企業名とか、メールアドレスなどを登録していただきますが、事前にチェックすることは難しいので、登録していただいたらダウンロードできるようになっています。ただ、質問などを送っていただいてもサポートはできません。まあ、こちらのキャパシティの問題で線を引かせていただいています。
記者B:では個人は想定には入っているのでしょうか。
矢田泰規[*10]:今後考えていきたいとは思っているんですが、今の段階ではそこまで対応はしていません。
記者B:企業なのか個人なのか、どうやって判別するのでしょう。さっき、あまりチェックしないということでしたが、だとしたら例えば同人誌のサークル名などを入力すれば落とせちゃいますよね。
中村:まあ、ダウンロードできてしまいますね(笑い)。
記者B:ですよね(笑い)。
中村:ただ、それ(ダウンロードしたソフトウェアで制作したもの)を、どんなふうに流通させていくかというのは、また別の問題だと思っています。売っていただく、あるいは(他者に)試していただくことに対し、シャープがそれを止めることは実質的にできないと思っています。ただしシャープとして、同人誌的なものまでサポートするのかどうかはまた別の話です。
記者B:このソフトウェアで制作したコンテンツを流通させる場合、例えば必ず『TSUTAYA GALAPAGOS』からダウンロードできるようにするとか、そういう縛りはあるんですか。
矢田:ありません。電子書籍をやられている会社はたくさんありますが、どこでも自由に出していただいてけっこうです。
中村:『TSUTAYA GALAPAGOS』には出さないけれど、他の電子書店に出すという方がいらっしゃっても、それを止めることはできない(大笑い)。
記者A:では、制作ツールからDRMをかけた形で出力することはできるのでしょうか。
中村:(そういうことは)しません。DRMをかける、かけないというのは、販売サイトのビジネスがコントロールする問題ですから。
矢田:暗号化はします。改ざんとか中を抜かれないように、パッケージングした形で出力できるようにします。
記者B:つまり制作ツールは、DRMを外した配信パッケージの形までは持って行けるけれど、完全なコピーコントロールするところまでは持っていかないと。
矢田:はい。
● シャープは本気で電子書籍市場の拡大を願っている
話し言葉なので少し読みづらいが、シャープの担当者が今回の無償提供をどう考えているか、言葉にしづらい雰囲気が分かるのではないだろうか。以上のやり取りをまとめると、次のようになるだろう。- 公開対象は法人だが、厳密なチェックはしないので実質的に個人でもダウンロード可能。
- 制作したコンテンツをどこで販売してもかまわない。
- 制作ツールによりDRMをかけることはできない。ただし改ざん防止のためにバイナリ化はする。
- シャープが同人誌のようなコンテンツの流通を始めるかどうかは別問題。
- 無償提供したソフトに対するサポートはしない。
もっとも、この制作ツールを使えば誰でもXMDFができるというような夢は抱かないほうがよいだろう。これらは日本語組版やXMLなどの専門知識なしには使いこなせない。例えば記者団とのやり取りで登場したような同人誌ユーザーが制作ツールを習得するには、一定レベルの努力が必要となる。他方で、その前に述べた印刷業者やDTP業者については、既に専門知識を持っているので比較的容易に移行が進められるだろう。特にDTP業者は個人経営が少なくないことから、前述のような「ゆるい」公開基準の恩恵に浴する人も多いはずだ。
● シャープの目論見は当たるのか?
ではそのような印刷業者やDTP業者にXMDF3.0の制作ツールが普及することで、本当にシャープが目論むように電子書籍市場は拡大するのだろうか。同社の姿勢は賞賛するが、残念ながら世間の目を引くほど市場が拡大するかどうかは疑問が残ると言わざるを得ない。たしかにそれまで電子出版をやってこなかった人々が新規参入すれば、市場のパイ皿が多少は広がるだろう。しかし、肝心なピースが抜けている。そのヒントは、他ならぬシャープの担当者自身の言葉にある。〈ただしシャープとして、同人誌的なものまでサポートするのかどうかはまた別の話〉
〈DRMをかける、かけないというのは、販売サイトのビジネスがコントロールする問題〉
1つめは今回の施策が、現在の市場規模を抑制している最大の要因と考えられる、リトルパブリッシング/セルフパブリッシング用市場の未整備という問題にノータッチであること。2つめとして、今回提供されるツールではDRMは無関係ということが象徴的にあらわしているように、シャープのツールでコンテンツを作ることが、ただちに電子書店で販売できることを保証するわけでもなんでもないという問題。ツールの無償提供はコンテンツの制作増加を促すことになるかもしれないが、それが既存の電子書店の体質や思考を変え、流通の増加に結びつくものかどうかは不透明と言うしかない。したがって、同社の担当者はよく自覚しているだろうが、ツールの無償提供は有効な刺激にはなっても、それだけでは市場規模の拡大にも限りがある。
もっとも冒頭で述べたとおり、シャープは『TSUTAYA GALAPAGOS』という立派な流通チャンネルを持っている。先の記者団とのやり取りに見られるように、同社が市場の拡大に強い意欲を見せているのは確かだ。「流通は別の問題」などととぼけたけれど、彼等の本気度からすれば、ある日突然『TSUTAYA GALAPAGOS』にリトルパブリッシング/セルフパブリッシング用のプログラムが登場しても、おかしくはないと思うのだが、さて、どうなのだろうか?
以上、シャープの制作ツール無償公開について考えたが、ツールそのものについては書き漏らした。いくつかお伝えすべき非常に興味深い点があるので、改めて報告することにしたい。
● 注釈
[*1]……「電子コンテンツの制作ソフトウェア「XMDFビルダー」を出版社や電子書籍制作会社に無償提供」(http://www.sharp.co.jp/corporate/news/110422-a.html)、「次世代XMDF制作ソフトウエアの正式リリースと無償化について」(http://www.xmdf.jp/document/XMDF_Authoring_Tool.pdf)[*2]……前掲「次世代XMDF制作ソフトウエアの正式リリースと無償化について」3ページに〈XMDF記述フォーマットも同サイトからDLできるようにする予定です(7月~)〉という文言があるが、同社広報部に確認したところ、これはXMDF3.0の仕様書の公開を意味するとのことであった。
[*3]……「電子出版とXMDF技術」北村義弘、岩崎圭介、田中秀明『シャープ技報』2002年12月(http://www.sharp.co.jp/corporate/rd/journal-84/pdf/84-04.pdf)
[*4]……“IEC 62448 Ed. 2.0, Multimedia systems and equipment - Multimedia E-publishing and E-books - Generic format for E-publishing” (International Electrotechnical Commission, Geneva: 2009.)
[*5]……「パソコン文書を電子ブックの「XMDF」に変換するソフト、シャープ」(http://www.nikkeibp.co.jp/archives/355/355320.html)
[*6]……「シャープとCCCがメディアタブレット「GALAPAGOS」向けにエンターテイメントコンテンツストア「TSUTAYA GALAPAGOS」を共同開設」(http://www.sharp.co.jp/corporate/news/101005-a.html)
[*7]……「より読みやすく、より魅力的な表現を目指し電子書籍のスタイルを変える「次世代XMDF」」(http://special.nikkeibp.co.jp/ts/article/a00i/106510/p3-1.html)
[*8]……「InDesign developer documentation」(http://www.adobe.com/devnet/indesign/documentation.html#idml)を参照。なお、日本語への翻訳が有志によるIDMLWikiにて公開されている(http://psychocat.net/IDMLWiki/index.php/Main_Page/ja)。
[*9]……通信システム事業本部メディアタブレット事業推進センター副所長兼システム企画室長
[*10]……通信システム事業本部サービス事業推進センター副所長兼コンテンツ企画室長
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